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弓道

渡辺 晴美 harumi watanabe

弓道

北海道生まれ。北海道大学入学と同時に弓道部に入部し、卒業後も札幌市で弓道を継続。国体には4回出場うち遠的で2回の優勝、近的で3位、5位。以降、結婚して関東に移り住む。最近の主な成績(入賞)は、1990年全日本弓道選手権大会(遠的の部)一般女子で優勝。98年の全日本遠的選手権大会女子の部優勝。96年の全日本女子弓道選手権大会で3位ながらも最高得点賞を獲得、そして99年の同大会で優勝。(皇后杯)。同年、日本スポーツ賞(読売新聞)を受賞する。教士7段。小学校の国語の講師も務めるほか、(財)全日本弓道連盟が発行する『弓道』を編集する。

渡辺晴美

極限の心理の先に見えるもの

―弓道は武道なのですが、たとえば、他の武道の選手は“武道の精神”と、勝利への執着心の間に深い葛藤があるようです。柔道の吉田秀彦選手は、心の中では一本勝ちを決めたいと思っていても、実際の勝負では反則勝ちでも何でも勝ちたい、と言っていました。渡辺さんはそのあたりをどのように考えますか。

「弓道は武道ですから、その精神をいちばん大切にしています。これは自分がどのような弓の引き方をするのかということに通じています。その弓を引いている状態を“会”と言いますが、ここに弓を引く人の品位(射品)、風格(射風、射格)があらわれるのです。

しかし、弓道も球技であるととらえれば、的への的中率で勝敗が決まってしまいます。ところが、的中ばかりを強く意識した会には、品がなくなり(的中に対する)その人の卑しさが出てしまうのです。大会で採点されるほうが、仮に100人いるとしたら99人までは、的にうまく命中すればよい評価を与えてくれるでしょう。でも本当の目利きの人がひとりくらいはいらして、弓の射品や射風を微細にわたって見抜いてくれるものです。弓道は、見る人と射る人とのギャップがある武道だと言われます。これは、見る人は命中という勝負の目で見、射る人は極限の会を求めているところからきています」

―両者の間には隔たりがあるということですね。しかし、渡辺さんは勝敗よりもあくまで“極限の会”を求めていると……。

「そうです。私は、自分の心も身体もギリギリまで追い込んだ状態になって初めて極限の会が生まれると考えています。そのため私は、女性では最も(引く力が)重いとされる19㎏の牽引力を要する弓を用いるのです。これを使うと引き分け、会の時点で身体がバラバラになってしまうのではないかと思うくらいです。ただ的に当てることだけを目的とするのなら、もっと楽に引ける弓を選択して、力一杯弦を引くことをせずにねらっていくのでしょうが、私の場合は、命中以上に自分が放った矢の強さや勢いのほうを、大切にしているためにそのような選択になるのです。そうして自分の心身にいっさいの妥協を許さず、追い込んでいくなかに初めて道が見えてくると信じています。ですから初めに勝敗ありき、ではなく、武道の美学の結果として勝敗があるという考え方なのです。先ほどの目利きの人が、『あなたは的に命中させるために矢を放ったのですね』と思うことはしたくないのです。たとえ的から外れても、『今のは実に射品がある矢だ』と思われる弓にしたいと思っています。また仮に目利きの人がいないとしても、自分の美意識を偽ることだけはしたくはありません。そういう意味では、本当に自分自身との闘いです」

合理性では語れないところに武道の面白さが

―これまで、渡辺さんにとって最高の会と呼べるものはどのようなものだったのでしょうか。

「99年の皇后杯を獲得(全日本女子弓道選手権大会優勝)したときです。私が射る順番は先のほうで、最初の一本で『自分にはこんな弓が引けたんだ』でも『こんな弓は二度と引けないのではないか』というくらいの弓が引けたのです。自分としては、本当に極限の弓でした。次の二本目を引いて後ろに下がったときには精魂尽き果てたという感じでした。弓道には『一射絶命』という言葉がありますが、それがわかりかけたと思うくらいの弓でした。私の次には、まだ十何人が待っていましたが、もし後の人が今の自分の弓以上の弓を引いたらしかたがないと素直に思えるくらいでしたね」

―もしかすると、心身を極限の状態に追い込むことが自分の持てる能力を最大限引き出すコツなのかも知れませんね。

「私は一般的にいわれているメンタルトレーニングというものが、どうしても合わないのです。たとえばよいときのことをイメージすると失敗するし、瞑想すると緊張してしまうといったようにです。逆に、『ああ自分はダメかもしれない』くらいに追い込まれた状況のほうがよい結果が出るようです。

 98年の全日本遠的選手権浜松大会では、大会の前々日に弓が壊れてしまったんです。それで翌日に同じような弓を用意して予選に臨みました。一本目に失敗してしまい『もういくらもがいてもダメなのかな』と思ったのですが、それでもなんとか決勝まで進むことができました。いろいろあったものの決勝で弓を引くまでは比較的落ち着いた状態だったのですが、決勝の会の時にふと神頼みの様な心境になったのです。『自分では引けないから、どうか神様引いてください』と。すると何か的にスッと近づくような感覚が生じ、弓をグッと押すことができたのです。矢を放った後に後ろに下がるのですが、気持ちが入り込みすぎていたようで、それがいっこうに解けなかったのです。いつもは自分の弓が終わって下がると気持ちも解き放たれるのですが……。そういう状態なので、自分のかけ(『弓懸』とも言う。弓を射るときに使う手袋のようなもの)がほどけず、人にほどいてもらいました。まるで金縛りにあったような心理状態でした」

―的にグッと近づく感覚というのは興味深いです。それは究極の心理状態なのでしょうね。以前、米粒に文字を書く書道家を見たことがありますが、そのときに彼は「究極的に集中すれば、その米粒がだんだん大きくなってきて、最後は虫眼鏡で見ているくらい大きくなる瞬間がくるので、そのときに文字を書くのです」と言っていました。

「私もそれと似たような経験がありました。明治神宮大会のときになりますが、まだ私は20才そこそこのころです。最初に36㎝の的を射った後に、24㎝の的に変わるという大会の取り決めでした。(24㎝の的に移り)弓を引き絞り、的に目を移したとき、『あれっ、36㎝の的よりも大きく見える』と感じました。会のときに弓は多少ブレたり動いたりするものですが、全く静止していました。
 しかし、このときというのは1カ月以上練習ができず、最悪の精神状態でした。『ああ、いったい自分はどうなってしまうんだろう』という不安と、『自分のやれる限りの力を出そう』という究極の心理状態のときにあらわれた現象でした」

―的が大きく見えるという以外に非日常的な感覚を味わったことはありますか。

「そうですね。自分の身体と的の中心がだんだんと合ってきて、最後に的の中心と身体の中心がみごとに重なり合ったというか、一体化したような感覚が生じたこともありました。あとは、頭の中がまさに“真空状態”のようになったこともあります。これは弓を引いているときに、『何とかしなくては―。そのためにギリギリまで努力する』と考えているときに起こった現象で、突然頭の中が真空になり、自分が自分でなくなり、自分が今何をやっているのか、わからなくなったような不思議な感覚でした。それで矢を放った後も『今のは何だったの。今自分はとんでもないことをしてしまったのではないか』と、現実をなかなか理解できませんでした。他には弓を引いている途中でとてもハイテンションになってしまい、戻ってくるときに目線が上のほうに行ってしまい、意識がとんでしまったという経験もありました」

―これらの非日常的な体験は、渡辺さんが会のときに心身を極限の状態にまで高めていこうとするから生じるのでしょうね。そういうときというのは成績も伴っているようですが、これを意識的につくり出すようなことはされていますか。

「弓を十本引いたら、また同じ十本というのはないのです。一見同じように見えても身体は微妙に変化しているものです。あるときの非日常的な現象に頼って、それを演出しようとすれば、“探り”が始まり雑念が次々とわいてしまうのです。もっとも、体位が微妙に変化してしまい、同じことをしようとしても無理なのですが。それに、純粋に体型は十代、二十代、三十代と変化していきますから、同じようにするよう心がけるよりも微妙な変化に気づき、その変化に自分を対応させていくことに意識を向けます」

―変化の中には環境的な要因、つまりは天候や湿気などによる弓の変形も考えられますね。

「今の弓は、竹と木を接着するのに膠を用いたものと、化学合成の接着剤を用いたもの、さらには中にカーボンを埋め込んだもの、さらにはグラスファイバーによるものがあります。最も天候の影響を受けやすく扱いにくいのが、天然素材の膠を用いたものです。でも私はその膠で張った弓を用いるよう努めています。もちろん命中だけを考えれば環境因子に左右されにくいカーボンを用いた弓を使うのがよいのでしょうが、私はそれよりもその時々の変化に対応しなければならないもののほうが、自分を追い込んでいく楽しさを引き出せるのだと思うのです。合理性だけでは語れないところに武道の面白さがあるのでしょう。

 西洋のアーチェリーは矢が当たるように道具自体ができていると聞きますが、弓は自然の道具なので、勝手には当たらないようになっています。つまり人間が入って初めて道具として成り立ち、弓がまっすぐ飛ぶのです。西洋の合理性を追求する発想とは反対に、あえて困難なものを操るというところに弓道の奥深さがあるのだと思います」

目のあるところに心あり

―ところで弓道においては目線をどこに置くかが難しいところのように思えるのですが。

「弓道では目は心の窓といいます。つまり目線をどこに置くかで、スキができたりできなかったりするのです。その視線は立って4m、座って2mと言われ、目線の向け方は鼻頭を通して自然に落としていき、弓のほうに移します。そうすると視野が広がり、自分の後方で人が動くのさえも感じとれるようになります。

 また、目のあるところに心ありという言葉もあるとおり、目のコントロールは非常に重要です。的を見ているけど、的を見ていないという感じでしょうか。つまり、意識的に見てしまうとそこに心ありで、『何としても的に命中させよう』ということばかりに気を奪われてしまいます。それに(私の場合)弓を引くときには、身体が極限の緊張状態になるので、左右の腕や指先のどちらかに視線が行ったりするとそのほうの腕や指先に余計な力が加わってしまい、左右のバランスが崩れてしまうのです」

―弓を引くときに身体が極限の緊張状態にあるということは、心もそのような状態にあると思われます。よく他のスポーツでは極度の緊張は大きなマイナス要素になるといわれますが、渡辺さんの場合はどうでしょうか。

「正直言って弓を引くときには、心も身体も呼吸もおっしゃるとおり究極的な緊張状態にあります。これは弓道の特徴なのかもしれませんが、その緊張感をひとつ越えたところに澄んだ心境が待っています。この心境になると時間感覚が全くなくなり、的をねらっているという雑念や周囲の音も風景もなくなり、ただ自分というものを純粋に感じるだけになります。

 以前一度だけ、ある先生に目をつむって弓を引いてみろと言われたことがあります。やってみると、目をつむっているのに矢は命中しました。そのとき先生は、『目はときに悪さをするのです』と教えてくださいました。目を通して入ってくる情報は五感の中でも最も強い情報です。その強い情報を身体の中に多く入れてしまうと、心の中に混乱を生じさせてしまうのです。私は、心を澄まして集中することだけを意識します。これも弓道の言葉ですが、『真を尽くす』というのがあります。これは、最後の最後まで決してあきらめず、途中でスキができたら埋めていくということを意味します。最初はどんな悪い状態でも頑張りとおし、たとえ失敗してもその中に最善を求めていくことこそが大切だととらえています」

―ところで渡辺さんは、心の安定を保つために姿勢を大切にされているそうですね。

「私は筋力があまりないため、弓道を行なう前提条件は悪いほうなのです。だから自分で骨格や筋のつき方などを勉強して、自分の身体を知る努力をしてきました。そして弓道でいう正しい姿勢についても自分で追及してきたつもりです。するとどうでしょう、弓道の姿勢というのが、非常に合理的に考えられていることに気づいたのです。そして丹田(へその下)というものが、本当に人間の身体の中にあるんだとわかりました。

 姿勢を整えて力を下(丹田)のほうに落としていくと、もし気分が落ち込んで負の心理のときでも、それが消えてしまうのです。力を下に落とすというのは、内臓を下のほうにおろしていき丹田のところにすべて固めるという感覚です。そうして丹田に力を集めると、会のときでもそれ以外のときでも、気分を常に安定させることができるのです。これは、座禅にも通じると思います」

自然体とは押されてもビクともしない安定した姿勢

―では具体的に「弓道の姿勢」とはどのようなものなのでしょうか。

「先ほども少し触れましたが、まず目線は4m先。背筋を伸ばして自分の耳たぶから肩、そして腰の中心、くるぶしまでを1本の線(腰以下は2本)で結んだような姿勢です。そして両肩の力を下に落とします。そうすると足の裏の感覚を非常に敏感に保てるのです。この姿勢のときには視野が広がり、同時にどんなことにでも素早く反応できるのです。

 武道では、自然体がよいとよく言われますが、これを真に受けて何も考えずにツッと立っている状態と勘違いしている人がいます。しかし本当の自然体と言うのは、一見すればどこにどう力が入っているかはわかりませんが、たとえば人に押されたときにもビクともしないくらい安定した姿勢なのです。
 そもそも弓道は、自然に逆らって主張する武道なのです。これは、重力に対しては上に伸びあがろうとし、弓に対しては引き伸ばすところにゆえんがあります。ですから何もしない自然体というものはありえないのです」

―その自然体の考え方はよくわかります。メンタルトレーニングの世界でも試合のときには平常心が大切といいますが、何も考えず、コントロールもしない平常心などありえません。やはり平常心も意識的なものなのです。一方で渡辺さんは、自分の心の内奥を、作為的につくり出す平常心をはるかに超えた究極の状態へと導かれているようですね。

「初めにもお話したとおり、弓道には競技者としての自分と、求道者としての敵は自分自身で、その両者が心の中で葛藤し、競技者としての自分が強くなりそうになると、技術が先走ってしまいます。その気持ちを抑えるためにも、精神的に究極まで追い込んで妥協できないような状況をつくりあげているようにも思えます。

 私自身は、勝ち負けを超えた“味のある弓”を引きたいと常々考えています。弓道には『射即人生』という言葉もありますが、弓の引き方ひとつとっても、見る人が見れば、その弓を引いている人間そのもの、生き方が表現されているのです」

無意識のうちに勝手に矢が放たれるのが理想

―ところで、会の状態から矢を実際に放つまでの時間はどのようなことを考えられるのですか。また放つときのタイミングはどう心の中に設定されているのですか。

「矢を放つときには、意識して『放とう』と考えているわけではありません。引手(右手)で矢を持っている状態ではありますが、この手を離そうと意識して考えると、逆に手に力が入ってしまい身体の中心線から左右のバランスが崩れてしまうのです。そのズレは時間にすると0.5秒くらいのほんの短い時間なのですが、弓道ではその微妙なズレが非常に重要となってきます。ですからもう片方の手に矢が放たれたという離れが理想です。

私の会は、だいたい7~8秒くらいの時間が最も調子よく、普通は4、5秒ですから少し長いといえます。これも意図して7、8秒としているのではなく、ギリギリまで耐えて耐えて、そうしているうちに極限に達し、矢が放たれていたという感じです。その状態になるまでに20秒くらいかかることさえあります。つまり時間ではなく、“その状態”にいつ達するかが問題なのです」

―最後になりますが、渡辺さんは呼吸法をとても大切にされているそうですが、それはどのようなものなのでしょう。

「これもメンタルトレーニングの世界でいわれているような呼吸法ではなく、弓道における呼吸法です。基本的には、呼吸が合わなければ弓は引けないものです。この呼吸法に関しては、私が生徒たちに弓を教えるときにも活用しています。たとえば、ある生徒が弓を引くのを(私が)観察しているときに、その生徒が行なっている呼吸に自分の呼吸を合わせるようなこともします。そうすると、自分の中にある理想的な呼吸とその生徒の呼吸とを比較でき、『どうしてそこで放つのか』ということが指摘できるわけです。その生徒が矢を放つタイミング、クセというのも知ることができるのです。

 白内障をわずらうある有名な先生はこうおっしゃいました。『たとえ目で見えなくても、弓を引いている人と呼吸を合わせればどのような弓かはよくわかる。弓というのは、手の上にふうっと息を吹きかけたときと同じなのですよ』と。私もようやくその意味がわかりかけたような気がします」

《高畑好秀著「成功するメンタル改造術」(主婦の友社)より転載》



メンタルトレーナー高畑好秀プロデュース