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野球

川崎 憲次郎 kenjiro kawasaki

元プロ野球選手

1971年1月8日生まれ/大分県出身
津久見高~ヤクルト・スワローズ(1989-2000)~中日ドラゴンズ(2001-2004) 現・野球解説者
津久見高では高校3年時に春・夏連続して甲子園でベスト8へ進出。その年のドラフト1位でヤクルト・スワローズに入団した。高卒ルーキーとして開幕ベンチ入りを果たし、その年24試合に登板し4勝4敗。さらにその翌年の90年には弱冠19歳ながらローテーション入りし、年間200イニングスを超える働きでチームの柱として一躍桧舞台に躍り出た。その後、故障による苦悶の日々を乗り越え、98年には17勝を挙げて最多勝を獲得、さらに投手として最高の名誉である沢村賞を受賞した。00年にFAを獲得、中日ドラゴンズに移籍した。04年10月に現役を引退するまでに通算88勝81敗2セーブ(防御率3.69)を挙げた。
<主な戦績、受賞歴>
オールスターゲーム出場 4回(90、91、98、00年)
1993年 日本シリーズ最高殊勲選手、カムバック賞
1998年 最多勝利投手、沢村賞

川崎憲次郎

エースのメンタリティ

マウンドに上がる前の心の準備

――川崎さんは現役時代、数々の大事な試合や負けられない試合で登板された経験をお持ちですが、マウンドに上がる前にどんな心構えをしておられたのですか?

どんな試合でも、ずっと前からは試合のことを考えないようにしていました。
早くから試合のことを考えすぎると、眠れなくなったり、体が動かなくなったりします。
ですから試合の1時間くらい前までは、自分の趣味の話とか、どこのお店がおいしいかとか、そんな野球以外の話をして、試合のことを頭から追い出すようにしていましたね。

――1時間前になると、スイッチを入れるわけですね。

そこからは集中します。
ユニフォームに着替え始めると無言でしたね。
自分の投げたボールの球筋や、対戦している打者のここに投げるというイメージを作っていました。それと、頭に入っているデータを思い起こして、バッターの弱点をついて三振を取るシーンや、試合に勝ってガッツポーズをしている場面をイメージしました。
とにかくいいことしか考えませんでしたね。

――エースとしてプレッシャーは無かったですか?

試合の1時間前からブルペンに入るまでの30分間は緊張しましたが、ブルペンに入って、マウンドに上がったら緊張はありませんでした。
やるべきことはやったので、あとは楽しむだけ。
マウンドに上がるまでに、すべてをやっておく。準備は大事にしていましたね。
やるべきことをやっていれば、自分の持っている力は出ますから。

調子が悪いときの対処法

――いざマウンドに上がって1球目を投げたら、「あれ、調子が悪いな」と思うときはありませんでしたか?

ありましたよ。それは大体ブルペンでわかりました。僕はブルペンで調子がいいとマウンドでダメなんですよ。ブルペンがダメなら、「よしっ」って感じで(笑)。

――マウンドでダメだと感じたら、どうやって修正するのですか?

そのときは、自分の中の「引き出し」から、対処法を出すんですね。
まず、低めに投げることを考えていました。
自分の思うところにいかないな、と感じたら、とにかく低目、低目に投げていましたね。

――その低目にもいかない時は、どうするのですか?

そういう時もありますね。その時は、とりあえず力いっぱい投げるとか、マウンドで笑顔を作るとか。フォアボールを出しても、ヒットを打たても「大丈夫だよ」とみんなに見せていました。
あとは、投球のテンポを早めていましたね。キャッチャーからもらうと、すぐ投げる。
自分のペースに引き込んで、相手に考えさせないわけです。そうすると、相手が勝手にはまってくれることもあります。
とにかく何かを変えることが大切ですね。調子が悪くても、できることは何かあるはずですから。

――よく「悪いなりに抑える」といいますが、プロのピッチャーでも調子がいい時ばかりではないですよね。

調子が悪い時の方が多いですよ、実際は。
でも一流の投手は、調子の悪い波が小さく、少ないんです。悪いなら悪いなりに対応できる引き出しがあって、その中でピッチングをしていく。二流の投手には、それがないんですね。

――プロの投手の中にも、自分の力を出せないピッチャーがいますよね。

ブルペンエースと呼ばれる投手がいますね。ブルペンではすごくいいボールを投げるのに、試合でマウンドに立つとダメな投手が。
それは精神的なもので、普段の力が出せていないんです。「打たれたらどうしよう」とか「監督に怒られる」とか余計なことを考えているんでしょうね。
マウンドに立てば、そこは自分のステージです。4万、5万の観衆が自分を見に来てくれているわけですから、自信を持って欲しいですね。
ピッチャーが投げないと、試合が始まらないわけですから。

――味方のエラーでピンチを招くこともあったと思いますが、気持ちの切り替え方を教えてください。

「なんだよ!」って思うこともありましたけど(笑)、それを言っても始まらない。エラーは野球につきものです。
野球はチームスポーツ。野手に助けられたこともたくさんあるので、いかに野手を助けてあげられるか。持ちつ持たれつですよね。
野球に限らず普段の生活でもそうですが、人の役に立っていれば、いつか必ず自分に得があると思っています。エラーしたら、「よし、あとは俺に任せろ」みたいなことを言っていましたね。
野球は一つのミスで流れが変わるスポーツ。流れを変えないようにするのが、ピッチャーの仕事ですからね。

スランプやケガの克服法

――長い期間調子が悪いことが続く「スランプ」にはまったことはありましたか?

ありましたね。若い頃はすごく考えていました。
考えて、考えて、考えて、落ち込んで……。
1年1年重ねて、経験を積んで余裕が出ると、とにかくスランプになったら「やるしかない」ということに行き着きました。
頭で考えても良くはならない。
考えて良くなるなら、みんな良くなるはず。
だから、とにかくやるしかない。
調子が悪くても次の登板はやってくるわけで、その時は自分のいいイメージだけを思い浮かべて、目いっぱいやるしかない。
あと、やはり投げるペースを早めるのが有効ですね。それが一番かもしれない。
相手に考える時間を与えないし、かつ自分も考えないで普段通り投げられますからね。

――ピッチャーにつきものの「ケガ」については、どのように考えていましたか?

10日間で戻れるようなケガならともかく、何ヶ月かかるかわからないとなると落ち込みますよね。中日時代、4年間ケガで満足に登板できずにさんざん言われましたけど、やはり責任もありましたし。
でも、そういうときもプラス思考です。「いい休みだ」と思うしかない。
その中で、今やるべきこと、できることはたくさんある。
投げられなくてもトレーニング、ランニング、治療とできることはたくさんあります。
自分にできることを一生懸命やる。どんな小さなことでも、です。
あれこれ考えて治るのなら、みんな考えますよ。でも考えても仕方ないから、自分のできることをやるしかないわけです。

エースとして活躍できた理由

――ずっとエースとして活躍されてきましたが、川崎さんの考える「エース」とは、どんな存在なのでしょうか。

「エース」と呼ばれた時期もありましたけど、僕はそんなのではないですよ(笑)
本当のエースとは、野球に限らず、みんなに頼られていて、精神的な落ち着きを与えられる存在ですね。そして、「ここ」という試合には、必ず勝つ。そういう存在です。

――今までのマウンドで、一番記憶に残っているのは?

忘れもしない、90年9月8日の巨人戦ですね。
優勝を決定する試合だったのですが、2対2で迎えた延長10回に吉村(禎章)さんにカウント0ボール2ストライクからサヨナラ本塁打を打たれたんです。その一発でリーグ優勝を決められた。
さすがに泣きましたね、メチャメチャ悔しくて。
それからは「巨人には絶対勝ってやる」と思いました。成績が伸びたのも、そのときからですね。

――悔しさが「巨人キラー」を生んだわけですね。ところで、川崎さんといえば「シュート」のイメージが強いですが、実はシュートを投げるようになったのは、かなり後になってからですよね。

そうです。97年が最初で、その年は投げてはいましたが、まったく目立つボールではなかった。シュートでブレークしたのは、98年です。

――なぜ新しいボールを覚えようと思われたのですか?

当時の野村監督から、「シュートを投げろ」とずっと言われていたんですね。
でも2年くらい無視していました(笑)。
というのは、やはり三振を取りたかったんですよ。
真っ直ぐも150㌔近く出ていたし、まだいいだろう、と自分の中で思っていました。
でも97年に、スピード表示は出ているのに真っ直ぐで三振が取れなくなった。
「あれ?」と思って、そろそろ変え時かな、と考えるようになって、シュートを覚えたわけです。

――「三振」と「シュート」は相容れないボールですよね?

三振を取るには、最低でも3球かかる。シュートだと1球で打ち取れるから、極端に言うと1試合27球で終わらせることができる。
なぜシュートで大成できたかと言うと、2つの要因があると思います。
ひとつは、言われて覚えたのではなく、自分が覚えたくて覚えたボールだから、それが身についたということ。
それともうひとつは、三振へのこだわりを捨てたからですね。
三振よりも、シュートを投げてつまらせて、打者が「あーっ」という悔しそうな顔をしながら1塁へ走るのを見るのが楽しくなった(笑)。
ピッチングが楽だし、楽しいと思い始めて三振を捨てたんです。
それから三振の数は減ったけど、四球の数も減ったし、勝ち星は増えました。

――三振を捨て、シュートを得て、また別の「川崎憲次郎」が生まれたのですね。

シュートは、自分を変えてくれたボールです。
プロ入りして3年目までは良かったのですが、4年目以降ちょっと勝てなくなって……。
でもシュートを投げるようになって、98年には最多勝、沢村賞を獲れた。
そんなに曲がらないんですよ、僕のシュートは。
プロのバッターは目がいいから、大きく曲がっても振ってこない。だからなるべくバットに近いところで鋭く曲げる。甘い真っ直ぐだと思って打ちに来たときに、グッと曲がれば、つまるわけです。
でも、その10㎝が、僕を変えた。自分の中では、変革でしたね。
たった10cmが僕のピッチングスタイルを変えたし、自分を奮い立たせてくれたんです。

《取材/構成=スポーツライター 佐伯 要》



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