line4.jpg

HOME > メンタルインタビュー > メンタル「安部奈知」

アメリカンフットボール

安部 奈知 nachi abe

元アメリカンフットボール選手

1970年1月13日生まれ/東京都出身
日本大学第三高校~日本大学~リクルート・シーガルズ(1992-2001)~オンワード・スカイラークス(2002-2005)
小学2年生から野球を始め、日大三高では西東京大会ベスト4進出。日本大学に進学してアメリカンフットボールの名門・日大フェニックスの門を叩き、2、3年時に全日本選手権ライスボウルで優勝した。大学卒業後はリクルート・シーガルズでTEとして活躍。96、98年の全日本選手権ライスボウルで優勝した。98年には日本代表に選出。99年の第一回ワールドカップに出場し、決勝のメキシコ戦では延長で勝負を決めるタッチダウンパスをキャッチするなど優勝に貢献した。また、プロとして97年、98年、00年にNFLヨーロッパのスコティッシュ・クレイモアーズ、98年にはNFLのカンザスシティ・チーフス、00年に同アトランタ・ファルコンズでプレーした。
01年にはボブスレーの日本代表にも選ばれ、ワールドカップ遠征や02年のソルトレイク五輪に出場した。

安部奈知

日々挑戦を続ける精神。それが向上心につながった

野球からアメフトへ

――元々は野球をやっておられたそうですが、なぜ大学からアメリカンフットボールの道へ進まれたのですか?

小さい頃からプロ野球選手になるのが夢で、高校(日大三高)でも甲子園を目指していましたが、最後の夏はベンチに入れなくて……。
大学ではサークルでもいいかなとも思ったのですが、やっぱり本気で取り組みたかった。根っからの体育会気質なのでしょうね。体育会にはつらさもあるけど、その中に楽しさがありますから。
実は高校時代にも、アメフトの漆間(健夫)先生から「アメフトをやらないか」と3回ぐらい誘われていたんですよ。その時は甲子園に行きたかったので断りましたけど。それに日大三中時代の野球部のチームメイトがアメフトをやっていたので、アメフトという競技に抵抗がなかったですね。
当時の日大フェニックスは日本一を争うチーム。どうせやるなら勝ちたい、うまくなりたいと思って入部しました。

――アメフト未経験なのに日本一のチームに入ることを躊躇しませんでしたか?

とまどいは全然ありませんでしたね。当時僕は182㎝82㎏だったのですが、野球でもベース1周13秒台で走るほど足には自信がありましたし。
だからTE(タイトエンド)をやりたかったんですよ、本当は。でも高校3年の夏が終わって野球部を引退して、大学のアメフトの練習に参加していたら、いつのまにかボールを渡され、スナップさせられて、気がついたらセンターをやっていました(笑)。
当時の内田コーチ(正人氏・現日大フェニックス監督)が「日本一のセンターにする」と言ってくださって。

――まわりは経験者ばかりですよね?

そうですね。でも初めてやることが楽しかったです。新しいスポーツにチャレンジしていたわけで、学ぶことがたくさんあった。
それと自分よりいい選手、強い選手に出会って「アイツより上手くなりたい」「○○に勝ちたい」という思いがありました。だからプレーできたのでしょうね。

自分で試行錯誤したから、技術が身についた

――そして名門・日大フェニックスでポジションをつかまれました。

大学2年の時に初めて試合に出してもらいました。その時はもう、必死でしたね。
先輩にも恵まれました。自分が聞いたことを一生懸命教えてくれたんです。そういう先輩方に支えられて、自分も上手くなっていったという感じですね。

――センターのポジションをつかむために、どんな練習をされたのですか?

とにかくロングスナップを追及しましたね。ある程度は教わっても、あとは自分でやるしかない。いろんな人の投げ方を見て、見よう見まねでやってみました。
15ヤードをどれだけ速くスパイラルをかけて出せるか? 練習をやればやった分だけ、後ろを見なくても自分の指からボールが離れる感覚でどこにどういうボールが飛んでいくのか、わかるようになりましたね。
それで試行錯誤して、左手は置いて、右手に持ったボールを地面につけてキャッチボールと同じように投げる、という投げ方にたどりついたんです。それは自分で研究し、追及して身につけたものなので、今でも忘れていません。

――やはり自分で考え、工夫することが大事なのですね。

そうですね。人から教えられて、やってみて、ある程度できたらそこで努力をやめる人が多いのは残念ですよね。自分の場合は、とことん追究しました。
アメフトでは、キックが試合を左右することもあります。スナッパーがスナップしたボールをホルダーがキャッチして置くわけですが、キッカーが蹴る時にボールのレース部分が足に当たらないように、回してから置かなければなりません。そのわずかな時間が命取りになることもあるわけです。だったらホルダーが回さなくても置けるように逆算して、ボールを回転させて投げればいい。そう考えていろいろ工夫するのは、本当に楽しかったですよ。

日大時代の恩師・篠竹幹夫監督の教え

―日大フェニックスでは、カリスマといわれた篠竹幹夫監督(故人)の指導を受けられました。どんなことが印象に残っていますか?

オヤジ(篠竹監督)は、常に「犠牲」とか「共同」ということを言ってましたね。
アメフトは戦術が重要なスポーツなので、11人が意図したとおりに動かないと成立しない。「自分が、自分が……」では、よくない。
また、「あきらめるな」ということも口ぐせのように言われましたね。
それから「どんなプレーでもタッチダウンを狙ってプレーしろ」と教わりました。
ライバルだった京大は常に2~3手先を読んでいたので、彼らに言わせたらナンセンスなのかもしれないですが、自分たちにはそれが当たり前でした。
だから今が「チャンスだ」とか「ピンチだ」という意識よりも、そのプレーに集中できましたね。

――練習は厳しかったのでしょうね。

練習中は、ものすごく怒られましたよ。
でも憎くて怒っているわけではなく、自分たちをより上手くしたいと思って怒ってくれている、ということを感じていました。
練習の時から、試合より真剣にやっていましたね。
オヤジも真剣に怒ってくれているから、それに真剣に応えようと。
僕は「オヤジに褒められたい」と思ってプレーしていましたね。
直接選手を褒めるのではなく、コーチを介して褒めるような人だったので、結局卒業までに褒められたことはないんですけど(笑)

――安部さんもよく怒られたのですか?

怒られましたね(笑)
怒られると、集合の輪の後ろの方へ行ってしまう選手もいましたが、自分は怒られてもどんどん前へ出て、じっとオヤジの目を見ていました。失敗して後ろにいることが嫌だったから。そういうところを見ていてくれたんだと思いますね。100人部員がいても、100人をちゃんと見てくれる人でした。
怒ることで試しているというのもあったと思います。コイツは、このプレーで試合が決まるような土壇場でいいプレーができるのか? そういうことを見極めていたのではないでしょうか。

――常にピリピリした状態で練習されていたんですね。

そうですね。僕らは敵と戦う前に、まず監督と毎日戦っていました。練習中から常にプレッシャーの中にいましたね。だから、甲子園ボウルで何万人という観衆の中でプレーしても全く平気でしたよ。何万の観衆の目より、監督一人の目のほうがプレッシャーだったわけです。

――安部さんは自分のやりたいポジションとは違うところを任されていた時期もありました。その経験から学んだことはありますか?

本当はTE(タイトエンド)をやりたかったのですが、大学4年間と社会人1年目はセンターをやっていました。センターとして培ったラインとしてのブロック力やパスプロテクションの技術が、後にTEをやったときに役に立ちましたね。
それと、そのポジションの気持ちがわかったのが大きかったですね。
センターはボールにさわったら反則になるポジションなんですよ。でもアメフトをやっている人は、ボールを持って活躍するQB(クォーターバック)やRB(ランニングバック)をやりたい人がほとんどだと思います。それでもアメフトでは「自分が、自分が……」ではなく、QBやRB以外のポジションも大事です。
そういう中でセンターをやっていて一番嬉しかったのは、QBから「いいブロックだったよ。ありがとう」と言ってもらったときでした。もちろんそう言ってもらいたくてやっているわけではないのですが、やはりそう言われると「この人にタッチダウンを獲らせてあげたい」と思うものです。だから後にTEをやったときには、「自分がタッチダウンしたときはクールに、自分以外の人がいいプレーをしたときやタッチダウンをしたときは盛り上げよう」という気持ちが大きかったですね。
ずっとTEなどの華々しいポジションをやっていたら、こういう気持ちには気付かなかったかもしれません。

試合で自分の力を出すために

――安部さんは日大フェニックスやその後進まれたリクルート・シーガルズで常に活躍されましたが、自分の力を発揮するためにメンタル面で工夫されていたことはありますか?

試合の前の日から、予想できることをすべて頭の中でシミュレーションしていましたね。
ほとんどのことは頭の中で経験済みなので、それ以上のことは起きたことがないですね。だからどんな局面にも対処できました。
練習量には自信があったし、何も怖くなかったですね。

――どのようにシミュレーションするのですか?

自分がついたポジションから見える光景を、イメージの中でシミュレーションします。
味方がどう動き、相手がどう動くか。スカウティングの映像で見たことはもちろん、コーチから「こういう動きはないぞ」と言われた動きも念のため「もしこうきたら、こうしよう」と考えていました。だから、自分が考えていた以上のプレーは実際には起きず、パニックになるようなことはなかったですね。

――シミュレーションにはないような、例えば自分がミスをしてしまった時は、どうやって気持ちを切り替えていましたか?

済んでしまったことは、取り返しがつかないので、残り時間が少ない時は別にして、「プレーのうちの60分の1だ」と思うようにしていました。万が一失敗しても、取り返すチャンスが必ず来る、と。
それと他の選手がミスしたときはしっかりカバーしようと思ってやっているので、自分がミスをしたときは誰かがカバーしてくれる、と思うようにしていましたね。

ケガに対する心の持ち方

――ケガなどで試合に出られないときもあったと思います。そのときはどのように考えていたのですか?

どんなケガでも、ケガをする選手は一流ではないと思います。やはりチームに迷惑がかかるわけですから。それでも自分がケガをしてしまったら、一日でも早く直すことに気持ちを切り替えていました。
練習試合で骨折したことがあって、そのとき医者からは「復帰まで3ヶ月かかる」と言われたんですね。それでも「絶対2ヶ月で復帰してやる」と心に決めて、自分の手帳とかカレンダーに「安部奈知復活の日」を書き込みました。
もちろんトレーナーと相談しながらリハビリをしたのですが、そのとき芝生の上を素足で歩いて、初めて足の裏で何かを感じる感覚をつかみましたね。「ここに体重を乗せたら歩きやすいな」というように自分の身体と向き合い、考えながらリハビリをしました。
それとケガをしている間も自分にできることを探して、それをやりましたね。フィールドの中にいると気付かないことでも、外からチームを見ると気付くことがある。だからケガをしたときはみんなの助けになるようなことを見つけて指摘したり、サポートしたりする縁の下の力持ちに徹していました。

――ケガをしてしまったからこそ、気付けたこともあるわけですね。

そうですね。カンザスシティ・チーフスのキャンプに参加したとき、トニー・ゴンザレス(現アトランタ・ファルコンズ)というTEと1対1で当たってケガをしてしまったんですね。押しこもうと思ってさらに一段力を入れたらグッと押せたのですが、そのときに肉離れを起こしてしまったんです。車で例えるなら、日本では5速のギアまでしか使っていなかったのに、6速のギアに入れたような感じでした。今まで使ってなかったギアだったので、筋肉が耐えられなかったのでしょうね。
でもそのときは、ケガをしたけど嬉しかったんですよ。「俺にもまだ使っていない領域があるんだ」ということに気付いたから。もっともっと精進すれば、もっと強くなれると思いましたね。

挑戦することで、自分自身が向上した

――リクルート・シーガルズで日本一も経験されるなど順調な競技生活を送っておられる中、あえて厳しいNFLヨーロッパにチャレンジされたのは、どうしてですか?

デービッド・スタント(当時リクルート・シーガルズヘッドコーチ)の影響が大きいですね。アメフトをやっていて、プロになるというのは夢にも思っていませんでした。NFLなんて雲の上の存在で、TVなどでプレーを見ても凄すぎて参考にならないくらいでした。
リクルート・シーガルズに入ってデービッドと出会い、2年目からTEにコンバートされていろいろ教わりました。彼からNFLのコーチが言うようなことを教えられ、それが理解できるようになってくると、どんどん楽しくなったんです。
ちょうどその頃、NFLヨーロッパが日本人選手を見たいという話があって、デービッドの勧めもあってトライアウトを受けたわけです。

――行った先は世界中の猛者たちが集まってくる場所。そこで壁にぶつかるようなことはなかったですか?

1対1の勝負にはなかなか勝てませんでしたね。
向こうも「日本人には負けられない」と思っていますし、みんな自分の首がかかっているわけですから。
練習で1対1の勝負をしたときに、わざと砂を目にかけられたこともありましたね。
そのとき「それだけ厳しい世界なんだ」と実感し、逆に楽しくなりました。
日本では自分も「すごい」と言われていましたけど、あらためて世界の広さを知り、「世の中にはすごいヤツがたくさんいるんだ」とワクワクしましたよ。日々、そんなヤツらに挑戦することの楽しさの方が大きかったですね。

――日本にいたら、そんなふうには感じられなかったかもしれませんね。

日本にいるときには「負ける」という感覚が少なかったですからね。
NFLというより高い目標ができたことで、上のレベルを目指すようになったわけです。
すごい選手の集まりの中で、「今日は10回のうち2回しか勝てなかった。明日は3回勝ってやる」という思いでやっていました。負けるのは悔しいですからね。

――それでも、安定した生活を捨てるには勇気も必要だったのではないですか?

結局3回向こう(NFLヨーロッパ)に行って、リクルートを辞めることになりましたが、一流の会社にいることが一流だとは思っていなかったんです。
それよりも「あのとき挑戦しておけばよかったな」と後悔するのが嫌でした。
挑戦しなければ自分の人生そのものが負けになるという思いが強かったですね。

――その後ボブスレーに挑戦されたのも同じような気持ちからですか?

そうです。よく「不安はなかったですか?」と聞かれますが、「不安に感じる人がいるんですか? 」と聞きたいくらいなんです(笑)。
だって初めてやることだから、マイナスなんてない。自分が一つ一つ上手くなることしかないのに……。
まあ、あまりにも自分がそういう考え方なので、コーチとして選手の不安を取り除いてあげないといけない時に困ったこともありますけど(苦笑)。自分がプレーする方が楽だったりして、ね。

――今後も何かに挑戦されるのでしょうか?

今でも膝さえ悪くなければ、アメフトをやりたい。でも手術してもよくならなくて、今は草野球をやっているのですが、やっぱり人より速いボールを投げたいし、1mでも遠くへ飛ばしたい。いくつになっても、うまくなりたいんですよ(笑)
そのためには人より多く練習しなくてはいけない。どうせやるなら、真剣にやりたいんです。適当にやるのは、好きじゃないので。

――安部さんにとっては日々が挑戦なのですね。

苦しいことを頑張っている自分が好きなんでしょうね(笑)
「俺って変かな?」と思うときもありますが、やっぱり負けず嫌いなんですよ。
でも「アイツよりもっと上手くなりたい」「アイツには負けたくない」という気持ちがあるから、向上心が生まれるんだと思いますよ。

《取材/構成=スポーツライター 佐伯 要》



メンタルトレーナー高畑好秀プロデュース